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たかひろくん(仮名

変わらない愛

ある新聞の投書欄に、「どんなぼくでも好き?」というタイトルの次のような記事が載っていました。
ある日、小学1年生の息子が学校から帰って来るなり、
「ねえ、お母さん。ぼくがタコだったらどうする?」
「えっ。タコ?」
「そう。クネクネしたタコ。お母さん捨てちゃう?」
「でも、そのタコは、たかひろ君なんでしょう?」
「うん。そうだよ」。
「じゃあ捨てないよ」。
「ふうん」。
次に、息子は部屋中を走り回りながら、
「お母さん、もし、ぼくが何人もいたら、どうする?みんなあばれまわって、とってもうるさいよ」。
「えーっ。それはたいへんだね」。
「うん。うるさいから一人捨てちゃう?」
「でも、みんな、たかひろ君なんでしょう?」
「うん。そうだよ」。
「じゃあ、捨てないよ」。
「一人も?」
「うん。一人も」。
「ふうん……」。
何ともほほえましい母子の会話ですが、とても考えさせられました。

旧約聖書の箴言に「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」という一節があります。すべての人が究極的に望んでいるものを、的確なことばで表していると思います。「愛し、愛されたい」と願うのはだれしもですが、人間はなかなかやっかいなもので、そう簡単にいかないのが実情です。
ところで、愛には三つの種類があるそうです。「もし、あなたが私の要求に応じるなら、愛します」──「もし愛」。この愛には、応じなければ愛せないという利害関係が伴っています。「あなたが私の子どもだから、愛します」──「から愛」。この愛も、いわば制限付きの愛です。残念ながら、人間の愛は、この「から愛」の域を超えることはほとんどありません。
最後に、三つ目の愛をご紹介します。「あなたは罪人です。でも愛します」──「でも愛」。イエス・キリストは、その生涯のすべてをかけて、この愛を私たちに示してくださいました。その究極の愛が十字架の愛です。
イエス・キリストは、何一つ罪を犯されなかったにもかかわらず、当時の指導者たちから憎まれ、十字架に付けられました。群衆もともに「十字架につけろ」と叫びました。兵士たちはイエスの頭にいばらの冠をかぶらせ、つばをはきかけ、平手で打ちました。悪口雑言とあざけりの極みの中で、イエスキリストは、「父よ。彼らをお許しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。自分をののしり、迫害する者たちに対しても、イエスの愛は変わることがありませんでした。そのようにして、計り知れない苦難を耐え忍び、私たちに救いの道を用意してくださったのです。
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(聖書:ローマ人への手紙5章8節)

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